米国への工場進出ではコンベア部門が先行したが、それを追いかけるように主力の軸受部門も着々と進出計画を進めていた。その背景には、すでに米国で現地生産を始めている日本のベアリングメーカーからの強い要請があった。ダンピング問題をめぐる対米摩擦の激化や、プラザ合意後の円高回避といった環境変化が、日本企業の海外進出と部品などの現地調達を一段と促し、ベアリング業界はその渦中にあった。
イリノイ州・シラーパーク工場など米国内に4カ所の生産拠点をもつエヌ・ティー・エヌ東洋ベアリング(NTN)は、それまで日本から送っていたリテーナーを含め部品・部材を100%現地調達する方針を打ち出した。ミシガン州アナーバー工場など2カ所で現地生産している日本精工も、現地調達率を50%から100%に引き上げる計画。さらに、光洋精工も全量、現地調達に切り替える方向――と、当時の新聞は報じている。
米国では1986(昭和61)年と1988(昭和63)年に、現地メーカーが日本のベアリングメーカーをダンピング提訴、主要製品のボールベアリングの場合、21・36%から73・55%の高率関税がかけられた。ベアリングをめぐる対米摩擦は1960年代から始まり、ベアリングを戦略産業と見る米国は、国防条項などをたてに各国に揺さぶりをかけてきた。日本のベアリング各社は、部品の完全調達で摩擦を未然に防ぐ道を選ぶことになった。
リテーナー生産の現地化をどういう形で進めるかは決まっていなかった。1957(昭和 32)年入社で、当時の軸受営業本部長だった山脇正治・元取締役は、「米国進出にあたって選択肢には買収、合弁、自前の3つがあった」と語っている。当時、日本のベアリングメーカー3社からは、早く現地生産を始めるよう矢の催促があり、「早晩、出ざるをえない」と腹はくくっていた。
総合的な経営判断として、自前で工場を建てる前提で、すぐに工場の用地探しに入った。1987(昭和62)年9月から、木村一夫常務を先頭に、米国南東部のジョージア、南北カロライナ、テネシー、ケンタッキー、アラバマ各州を1カ月かけて回った。同年10月、建設地をアトランタ郊外のアセンズに決めたが、同じ月、ニューヨーク・ウォール街の株の大暴落、“ブラック・マンデー”が起きた。
アセンズはジョージア州北東部に位置する人口約11万人の学園都市で、1785年創立のジョージア大学(UGA)とともに発展した町である。年間の平均気温は摂氏10.5度、冬は温暖で気候に恵まれている。年間の降雨量は1200ミリと比較的多く、綿糸工業が盛んだったことから、“南部のマンチェスター”ともよばれてきた。ちょうどインダストリアル・パークの売り出し中で、州政府などの企業誘致策も選ぶ決め手になった。
この時期、ジョージア州を中心とする米国南東部への日本企業の進出は盛んで、南東部6州で約280社(1987 年2 月時点)にのぼっている。総投資額は14億ドル、総雇用者は1万4000人を数えている。ジョージア州に限ると、ジョージア日本人商工会に加盟する企業が2年間で5割増の120社に急増。もともと農業州で経済開発が遅れており、安い労働力と低い労組組織率、外国企業への優遇政策などが進出ラッシュの背景にあった。
クリスマスのアセンズ市役所
新工場立ち上げの準備で、デトロイト駐在の村角光司(1982年入社)がアトランタに引っ越し、現地法人NMCの初代社長に中西一雄社長の弟の中西昇が決まり、日本から持参したお神酒で地鎮祭を行った。操業開始は1988(昭和63)年9月で、50人前後の米国人を現地採用、当初の日本人スタッフは十数人だった。
全くの更地(約25万㎡)から1年で製品第1号を生み出し、その年の暮れには100万個へ。目標を決めたら、それに向かって一気に突き進む、というのが日本人、あるいは日本企業の得意技なのかもしれない。不思議なことに、社長以下、工場長、セールスマネジャーまで血液型はB型だった。 1989(平成元)年には、ボールベアリング・リテーナーを生産、米国に工場進出している日本精工、NTNなどへ製品供給を始めた。2年後の1991(平成3)年には樹脂製リテーナー、1995(平成7年にはNMC第2工場を建設し、ゴムシールの生産を手がけるようになった。わが社はこの間、用地買収から資材調達、雇用、人事まで徹底したローカライゼーション(現地生産)主義を貫いてきた。
NMC全景