日本の自動車メーカーの海外進出にいち早く対応するなど、わが社の輸送機部門は急成長を遂げ、それまで8対2だった軸受部門との売上比率を、1990年代初めには肩を並べるまでに押し上げた。生産増強のための拡大路線は、折からのバブル景気に乗って順風満帆のように見えたが、バブルがはじけ、設備投資が冷え込むと、一気に急ブレーキがかかった。売上目標の200億円どころか、100億円にも届かなかった。
1994(平成6)年12月、中西輸送機社長に1966(昭和41)年入社の杉原一廣・元取締役が就任した。その直後の1995(平成7)年1月17日早朝、淡路島北部を震源とするM7.3の阪神・淡路大震災が発生。震度7の神戸、芦屋、西宮など阪神間の都市が壊滅的被害を受けた。死者6434人、負傷者4万3792人、被害総額約10兆円で、戦後最大の自然災害となった。
大震災の影響を受けながらも、輸送機部門の立て直しは待ったなしだ。杉原社長は、売上目標は目標として、受注状況を的確に予想したうえで再建計画を立てた。導き出された結論は、厚木工場の閉鎖と人員整理だった。
再建計画の当面の目標は、いかに早く単年度で黒字にできるかだった。
輸送機事業部の体質改善が徐々に進み、自動車メーカーの設備投資も上向いてきた。あれやこれやの追い風もあって、3年目の1997(平成9)年、ようやく単年度黒字になった。
業績回復の大きな後押しになったのが、コンベアの画期的な新製品「フリクション・ローラー・システム」の完成である。この新システムは、樹脂ローラーの摩擦により搬送、前が詰まったら自動的に止まる仕組みで、天井からつるしたチェーンを回転させる従来のコンベアの発想を、180度転換させたものである。これまでの方式では鉄粉が飛び交い、騒音も大きく、電力をより消費するという難点があった。
わが輸送機事業部は、スズキの鈴木修社長(現会長兼務)から「何とかならないか」と改善要求を受けていた。搬送設備の軽量化に向け材質の研究、開発に1年余り費やしてできあがった試作品を、スズキの浜松工場でお披露目した。同社の全役員が見守る中、鈴木社長は「やっとできたか」と目を細め、試作品に満足してくれた。これが設備軽量化の始まりであった。
このフリクション・コンベアと軽量化がテコとなって、自動車メーカーとのパイプがさらに太くなった。2000(平成12)年、カナダのトロント周辺に工場進出を計画している本田技研工業からわが社に任せたいという依頼があり、プレスから溶接・組み立てまで全ラインを引き受けることになった。その前年にも、同社の狭山工場(埼玉県)で、フリクション・コンベアの据付工事を行っている。さらにトヨタ自動車へと受注先は広がっていった。
杉原の後を受けて中西輸送機の社長に就任した米田繁・元常務が2004(平成16)年11月に急逝、当時、技術部長の岡崎茂雄・取締役が後任の社長に就いた。
2005(平成17)年にはトヨタ自動車の南アフリカ工場向けの生産ラインを2期に分けて受注。同社では初のメインラインである。