海外展開の動きを追って、2000年代半ばの中国進出まで話は進んだが、国内での出来事にスポットをあて、もう一度1990 年代に話を引き戻したい。名張工場の立ち上げ(1987年)、米国・ジョージア州への工場進出(1988年)など、増産のための設備投資が相次ぎ、銀行からの長短期の借入金は目に見えて膨らんでいった。そこへバブル崩壊。わが社は1992(平成4)年、経理部と財務部を分離し、財務体質の強化を図ることにした。
1980(昭和55)年入社で、財務部発足当時からこの分野に携わってきた杉本憲司・財務経理部長によると、「売上高なみに膨らむ借金」に危機感を覚えたという。売上高は伸び、営業利益もまずまずなのに、経常利益はがたっと落ちる。その原因は金融支出(支払利息)で、これだけで利益が飛んでいた。金利は年6%から8%、ゼロ金利時代では考えられない高さだが、バブルの坂を駆け上がっていた当時は、当たり前の水準だった。
借金のピークは1992(平成4)年で、約250億円、年間の売上高に匹敵するほどの額にのぼった。そのほとんどが設備投資だった。
自動車メーカーの国内、海外展開に伴い、そのラインを受け持つわが社の輸送機部門は、仕事量がうなぎのぼりに増えていった。
コンベア部門の売上高は76億円からピーク時210億円と3倍に伸び、椿本チエイン、ダイフクといった先発組を追い上げた。設備、運転資金でカネは食ったものの、それ以上に利益も出していた。
“好事魔多し”で、バブルがはじけて様相が一変する。もちろん、わが社だけの話ではなく、日本の経済、産業界は大きな地殻変動に揺さぶられた。わが社では財務部の出番となる。1992(平成4)年、経理・財務分離と同時に、経営企画の片山淳・社長室部長(当時)が兼務で財務部長に就任、「10年間で借金を半分にする」と大号令をかけた。新規の設備投資を凍結、不動産など売れるものを処分することになった。
借金減らしのスリム化作戦。同年、操業開始後間もない水口FA工場を、コンベアの滋賀・湖南工場に機能移転し、1998(平成10)年に丸ごと売却した。ほぼ同時に韓国・蔚山工場と神奈川の厚木工場を手放した。厚木のコンベア工場は、日産自動車座間工場の閉鎖による影響が大きく、戦後、長らく続いた関東地方での生産拠点を失うことになった。工場のみならず、愛知県の営業所をたたみ、2002(平成14)年、白馬、鳴門、伊勢、有馬の保養所も売却した。