超大国としての米国の夢は、21世紀が幕開けした2001(平成13)年9月11日、米国各地を襲った同時多発テロで打ち砕かれた。イスラム過激派に乗っ取られた旅客機が、ニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込んだ象徴的な事件は、テレビ映像を通じて世界の人びとを震撼させた。ブッシュ政権は「テロとの戦い」を叫んでアフガニスタンへ報復爆撃、さらにイラクに米軍中心の多国籍軍を進めて、泥沼の10年戦争に陥った。
この10年間に、自国通貨のドルの値打ちは半分になり、石油の価格は3倍にハネ上がった。アフガン・イラク戦争の代償は、皮肉にも“米国の落日”をもたらす結果となった。
一方、21世紀に入った日本の10年間はどうだったのか。2001(平成13)年に“構造改革なくして成長なし”の小泉純一郎内閣が発足。規制緩和と効率主義を旗印に、米国のグローバリズムをお手本にして経済政策を推進した。過度の金融資本主義が、IT(情報技術)やファンドなどで急成長した、いわゆる“ヒルズ族”を生む一方、非正規雇用者が急増して3分の1を占めるまでになり、“ワーキングプア”の存在が社会問題となった。
日本経済の動向は2005(平成17)年12月、景気の踊り場を脱して東証株価は1万6000円台をつけ、経済成長率も2%台を回復した2006(平成18)年7月、日銀はゼロ金利を解除、景気拡大局面が58カ月連続となり、「いざなぎ景気を超え戦後最長を更新」と宣言した。5%を超えていた失業率も2004(平成16)年から4%台に下がり、GDP(国内総生産)が560兆円、経済成長率2.4%を記録した2007(平成19)年には、失業率3.85%と3%台にまで低下した。
そんななかで、米国発の金融危機が日本と世界を直撃した。2007年夏以来の米住宅バブル崩壊によるサブプライムローンの焦げ付き問題が、2008(平成20)年9月の米証券大手リーマン・ブラザーズ破綻をもたらし、それをきっかけに金融危機となり、世界不況へと発展した。東証の株価はバブル崩壊後最安値を更新、円は急騰して1ドル=90円を突破した。
小泉純一郎首相(当時)がNAIを訪問(2006年)
リーマン・ショックによる世界的な経済不況下の2009(平成21)年5月、わが社は中西一雄社長が会長に勇退し、中西竜雄専務が社長に就任、新たな舵取りを行うことになった。しかしながら中西竜雄にとっては困難な波が待ち受けていた。
欧米向けの輸出が激減したことに加え、新興国、資源国向けの輸出も大幅に減少に転じるなど深刻な業況で推移。軸受業界は2008(平成20)年末頃までは自動車、産業機械向けを中心に堅調に推移していたものの、その後は急激な景気悪化で大規模な減産となり、収益面でも大きな影響を受けた。コンベア業界も自動車各社の減産体制で欧米向けの大型設備投資案件が中止、あるいは延期され、極めて厳しい状況となった。
こうした経営環境のなかでの社長交代、新体制の船出である。
2009年1月幹部会での中西竜雄専務(当時)、中西一雄社長(当時)
竜雄社長は2009(平成21)年夏号の社内報で社長就任の決意を語っている。NKCビジョンに沿った経営方針の要旨は、以下のとおりである。
―― 1人1人が個性と能力を最大限に発揮するために、私が特に強調したいのはワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)の促進です。仕事一辺倒にならず、各自の生活を尊重することが重要で、その実現に向けて、人事制度改革を含めた各種社内制度の改革を進めたい。また、職場環境の改善については、実際に働く皆さんからメンバーを選んで具体的な提案をしてもらい、実施したいと思っています。
世界的な景気後退のなかで、NKCグループを変革し、中長期目標である売上高1000億円、経常利益100億円を達成することが、私の使命だと考えています。2004(平成16)年度からの中期5カ年計画は、皆さんの努力で目標をクリアできましたが、2009(平成21)年度から新たな中期5カ年計画がスタートします。不透明な世界経済に合わせてわれわれの活動を減速させてはなりません。新分野にも視野を広げ、顧客満足度を高めるサービスの提供に努めてほしい。
NKCグループには1924(大正13)年の創業以来培ってきた技術力と創造力がある。これからもその力を結集して精密部品、トータルエンジニアリングを提供することで、社会から信頼される企業をめざします。さらに私は、地球環境への対応が、社会からさらなる信頼を得るためのキーワードの1つだと考えます。ゼロ・エミッションの実現をはじめ、環境対応車の導入、太陽光パネルの設置など環境改善活動に取り組んできました。
最後に「大胆な改革」を訴えます。現在の情勢は必ずしも明るいものではありませんが、こうした状況がいつまでも続くわけではありません。来るべき局面に備えていまは力を蓄えるべく「小さな改善」を積み重ね、いざ機が熟せば先陣をきるために「大胆な改革」を実行してほしい、と思います。「小さな改善」の先に「大胆な改革」があることを念頭におきながら、「スピード」を意識して行動に移ることが肝要です――。
旧天満工場の屋根に設置された太陽光パネル
創業から90年近い歴史をもつわが社も、21世紀に入っての節目の年に、足跡を顧みる行事やセレモニーを行った。その1つが2004(平成16)年11月29日、大阪のリーガロイヤルホテルで開いた中西金属工業創業80周年記念式典である。当日は住友金属工業や新日本製鐵などの主要仕入先や取引先、わが社OBなど来賓の列席を仰ぎ、総勢200人を超えた。
開会のあいさつで中西一雄社長は、仕入先、取引先のお引き立てにお礼を述べ、わが社の業容を支えたOBや社員に感謝の言葉を贈った。創業者である中西辰次郎が軸受事業に着手するようになったT型フォードとの出合い、大阪大空襲で殉職した23人の白百合挺身隊(沖縄県出身)の尊い犠牲、戦後の動乱期にまたたくまに日本一の自転車部品メーカーになったエピソードなどを披露、80年にわたるわが社の歴史を紹介した。
続いて常務在職25年の経歴をもつ木村一夫・元常務があいさつ。「勤勉であれ」と言い続けられた先代の中西義雄社長から学んだことを紹介した。来賓からは住友金属工業の天谷雅俊副社長が「中西金属工業は堅実な成長を続け、事業部すべてが黒字部門とお聞きしている」とわが社の発展をたたえた。
2007(平成19)年10月、フィリピン・セブでNPCの設立10周年記念式典が開かれた。中西一雄社長みずからが夫人を伴って参加し、米国に続きアジアに進出した最初の量産工場である同社の順調な成長を改めて祝福した。
また2008(平成20)年9月には、米国・ジョージア州アセンズのNMCで、設立20周年のパーティーが開かれた。本社から上地通之取締役や前出の村角光司らが参加、操業以来お世話になっている地域の関係者を招き、全従業員が参加して昼食会を開いた。従業員には記念品として20周年の刺繍入りジャケットを進呈した。さらに、家族を招いてのオープンハウスも開いた。
初代NMC社長の中西昇は「思い起こせば20年前、殺風景で広々とした牛の放牧地をどう工場にすればよいのか、と村角部長と思案したのがきのうのようです」とメッセージを寄せ、村角は「夢を追いかけチャレンジしていたあのパワーを思い起こしています」。工場立ち上げのころNMCに駐在、2008年時点で中国・無錫工場勤務の東間智明は「起動ボタンを押す瞬間に立ち会えて光栄でした」と感想を寄せている。
オリジナルメンバーの1人として表彰を受けた工場責任者のトッド・シャープは「会社がスタートしたとき現地採用された18人の製造部員は、地元のアセンズ工科学校でスタートアップ研修を受けて働き始めました。同期入社の仲間のうち私たち8人は今でもNMCに在籍しています。NMCの誕生から今日までの発展の歴史とともにあり、今日のNMCの礎を築きあげてきたことに、無上の喜びと誇りを感じています」と語っている。
さらに2010(平成22)年には、わが社で海外生産拠点の第1号である米国のNAIが現地で30周年記念式典を開いた。米国・テネシー州メンフィスにコンベア工場を構えたのが1980(昭和55)年のことである。東芝、シャープ、サンヨーなど日本の家電メーカーに後押しされる形での海外進出だった。初の海外駐在となって工場を立ち上げた岡崎茂雄中西輸送機社長らが現地に赴き、感慨を胸に30周年を祝った。
NPC10周年式典で飛び立つハト | 中西一雄社長(当時)夫妻がNPC10周年記念のケーキに入刀 |
NMC20周年パーティーのオープンハウス受付にて | NMC20 周年パーティーでの永年勤続表彰 |
NMC20周年を祝う同社一同 | NAI30周年記念パーティーでの幹部 |
NAI30周年記念パーティーの参加者全員でバーベキュー |